午後のセッション

 最終日なので、日本からの先生がたと過ごす時間が多くある。それとともに、Christ Wrightにあって、写真を撮った。2012年6月に訪問予定。楽しみ。
 最初同様に、東アジア地域のミーティングをもつ。韓国、モンゴル、日本の教会があつまり、それぞれの組織を述べる。モンゴルで最初のほうにクリスチャンになり、現在は牧師、そしてモンゴルの福音派の教会のリーダーとなっている方の写真。
 

 
そして、お互いのために祈る。来年には、モンゴルで、アジア・ローザンヌ宣教会議が開かれる予定。

午前のセッション

 今日は最後のTable Group Leader Meeting。それぞれ安堵感と感謝の思いを持ちながら、集まる。ちなみに、リーダーには感謝の贈り物があるそうだ(絵、日本に帰ったから額に入れようとは思う)。
 最初のセッションは聖書講解。しかし、それ以上に、様々な話がある。まず、「聖書の貧困」の解消を訴えるメッセージ。教会で、社会で、若者に、国々に、聖書の貧困がある。その解消に取り組もう、というメッセージ。各自が聖書を帰納的に読む、文脈を考えて読む。この世間の常識ではなく、聖書の立つ生き方に則って聖書を生きる、そのために聖書を読む。そんな風になればいいと思う。
 今日の聖書の箇所はエペソ6:10−24。しかし、今回のセッションの冒頭で、エペソ書が最初から、最後まで読まれる。長いけれども、そういうことも必要だ。さて、この箇所は、クリスチャンが霊的戦いに関わっているとうことがメッセージ。そして、神の与えられた「武器」をどのように用いるか。まず、私たちの責任はなにか。われらがイニシアティブをとって、嵐が到来した時、堅く立つ。そして、目に見えない教会は、福音派の教会という枠組み以上に大きいことを知り、血肉ではないものと戦っていくことが大切。そして、祈りのゆえに、助けが来る。次に、武具について。欠くことのできない価値としての真理、正義、平和の福音。これらを人格の中であらわす。欠くことのできない信頼。神への信頼という信仰と手紙にあらわされている救いの計画。最後に欠くことのできないリソース。これがなければ道を進むことはできない。神のことばと霊による、不断の祈り。主の情熱をもって、困難の中でも大胆に語る事ができるように、パウロは二度祈っている。
 主題講演は宣教協力について。D. Ruizは、あらゆる所から、あらゆる所への宣教の重要性。そして、教会の一致が欠如しているから、福音宣教の機会を失う危険性があるとのこと。Segraves夫妻は、宣教団体にとって、教団、教会、男女の協力が不可欠と語る。そして、リーダーシップは謙遜と共にあって本当に意味がある神の賜物である。OMFのP. Fungの講演が一番、印象的。われらがこの地上で関わる宣教は、宇宙大の目的と広がりがある。そして、それは壊れてしまっているこの世界に対する神の愛のケアである。そこには神の力があらわされている。そして、その神の力をわれらは受けて働きをしている。われらが持てるものを持ち出し、そこに存在する多様性をもって共に主の前に踊ることが大切。謙遜と、世界宣教の為の犠牲的な分かち合いが求められている。つぎに、神の贖いがあらわされている。世界は「和解のことば」を聞きたいと願っている。自己に死ぬことが重要であり、世界が求めているのはそのような者によってあらわされる「神の国という名の新しい均衡」である。最後に、神の主権があらわされている。アジアの時代だ、アフリカの時代だ、というだろう。しかし、われらは同じミスを繰り返す可能性がある。西欧の絶対主義が、アジア絶対主義に変わったところで、何が変わるのだろうか。あくまで世界宣教は神の主権的支配の下に進められるものである。われらが宣教の働きを完成するのではない。宣教協力は、友情という名の旅である。一日、二日で生まれるものではなく、友情という関わりが育っていく中で宣教協力が進んでいく。そのことを覚えて進みたい。
 共に一週間を過ごした仲間たちの写真。一人は先に帰って行ったので、五名。パキスタンリトアニア、ロシア、アメリカ、韓国(オーストラリア)、日本。よい交わりが与えられ、これからの関わりが続くことを願う。
 

夜のセッション

 夜のセッションは西欧とユーラシア(旧ソビエト)にまず焦点が当てられる。アルファの活動をしているN. Gumble氏によって、福音のすばらしさが語られた後、ユーラシアの福音派の教会の二人の指導者が話す。1989年、マニラでの集会の時には、まだすべてがソビエト連邦であった。そのあと、ソ連の崩壊に伴い、自由が与えられたのとともに、迫害のある地域も生まれた。かつて、シベリアは流刑の地であったが、いまは宣教地である(おなじテーブルの方から聞いたことは、モスクワも宣教地、もともとの住民は14パーセントに過ぎない)。とはいえ、ロシアはまだソ連の傷からの回復の途上にある。現在抱えている問題からの新しいチャレンジもある。しかし、新しい世代が誕生し、新しい、若いリーダーが生まれてきている。その事に希望を持ちつつ進んでいる。
 そのあと、讃美と祈りの時。自分、家族、自国の教会、自国、地域、世界の罪をそれぞれが覚え、テーブルで祈り、ひざまずき、悔い改め、ゆるしをいただき、讃美しつつ、前に進む。
 今晩の集会は、これまでとはことなり、小編成のオーケストラによる讃美。編曲、ちょっと派手すぎ。

午後のセッション

 分科会は「繁栄、貧困、福音」のセッションへ。アフリカの学者たちが発表し、導いていた。繁栄の福音は、貧困を悪魔のように取り扱い、貧しい者を隅に追いやる。貧困のアフリカの現実のなかで、それをごまかし、困難なしに、すぐに貧困から脱却を求める人々の心に働きかける。まさに、アフリカの極度の貧困の中に繁栄の福音が広がっていることが問題である。短い講義のあとの質問の中で、アフリカにおける繁栄の福音は、都市部ではサポートされているが、田舎では受け入れられない。説教をする者たちが、自分が利益を得るために(立派な家を建てる、ベンツに乗る、など)説教をするようになると、繁栄の福音の危険がある。そして、これから必要なのは、「労働の神学」である。
 アフリカの学者たちの神学的思索の深さを思わされた。そして、福音派に本当に必要なのは、神学的倫理であることが、明確になってきている。今、この時代に、どのように生きるのか。天国に行くことだけを考えている、そんな神学から脱却し、キリスト者として如何に生きるか、もっと聖書から教えられる必要がある。ちなみに、印象深かった神学者のひとりはこんな感じの人。
 

 
 続いて、神学教育に関するグループへ。神学教育がグローバルであるか、どうか、についての提案。まず、聖書によってグローバルであることはサポートされている。次に、グローバルへと進み、平等になる可能性がある。まだ平等ではないが、様々なリソースをひろげ、互いに分かち合うことを通して、このことがなされる。最後に、グローバルな神学教育はグローバルな教会という共同体にエネルギーを与える。単にグローバルに存在するだけではなく、そこにグローバルな実質を与えるものが神学教育である。受け取り、与えることによって実質が生まれてくる。神学校は教会の宣教の為に仕え、神学教育の協力団体は神学校で教える人を訓練するために仕える。
 ここで話されていたことの一つに、教科書の問題、特に自国語での教科書の問題が出ていた。それとともに、文化を注視し、生まれてきている神学をよりグローバルで分かち合う必要もある。西からではなく、むしろ南と東が協力し合う方向がもっと生み出されればいいのに、と思う。

午前のセッション

 今日は、朝のTable Group Leader Meetingがないので、少しゆっくりしてから、会場へ。ほとんど曜日の感覚がなくなってしまう。実は、今日は土曜日である。
 聖書講解はエペソ4:17−6:9という長い。アフリカのC. Odede。われわれはこの世界でキリスト者としてどのように生きるか。そして、われわれの人生においてどのようにしてこの世界との違いをあらわすのか。「歩く」ということばに焦点を当てて、語られた。4:17からは、異邦人のように歩かない、つまり生き方が問われている。新しい生き方を選び、聖霊を悲しませない、本物のキリスト者。信用されるキリスト者。単なる「ブブゼラ」のように音だけするのではない。イエスは、毎日、ご自身と共にわれわれが歩き続けることを願っておられる。5:1からは神の子どもたちとして神に似たものとなること。イエスの犠牲的な生き方を、人々が歩もうとはしない道を選ぶことが大切である。それは、人々の痛みを感じ、人々の人生に触れる生き方である。5:7−14では、光の下を歩くこと。光の下にさらしてはじめて、癒され、新しくつくられる。そして、あらゆる点において「透明」であること、そしていつも説明責任を負い続けること。東アフリカのリバイバルは、光の中を歩くこと、特に罪の時に光の中を歩むことから始まった。最後の5:15−6:9では、知恵あるものとして、悪しき日々に生きる事。機会は去っていくからこそ、この時を用いるべきである。そして、家族(広い意味での)のあいだにその関係が広がる。聖霊にある本当の生き方が、われらの家庭に広がるように。小さなことから注意するように。
 アフリカ的な説教。箇所は長いが、中心的なところはしっかりと押さえてていた。今回の会議で繰り返されていることであるが、福音にある生き方が、日々問われており、生き方が宣教と密接に結びついている。
 ちなみに、説教の前に各自で聖書を読み、考えるが、わたしの所属していたテーブルの様子は以下のよう。
 

 
 朝の基調講演は、キリスト者の誠実さについて。Christopher Wrightのメッセージは、ほとんど講解説教。今回の会議でのメッセージの背景には、宣教とキリスト者の倫理のあいだにある重要な関係についての彼の主張が流れている。
 神の宣教の最大の障壁は、神自身の民、それも彼らの偶像崇拝である。偶像崇拝は、まず、力と高慢を求める所にある。しかし、そこにあるべきは謙遜。次に、偶像は人気と成功を求める所にある。正直に報告しない、人々が聞きたいことを語る、その姿に現れている。そこにあるべきは誠実。最後に、富と貪欲。消費主義。神は必要を備える方である、しかし、このことが誤解されていく所におこる。本当に必要なのは、簡素。イエスはサタンに誘惑された。それはこの三つのポイントであった。われわれには、宗教改革が必要である。そして、本質的なところで主に立ち返る必要がある。宣教の為に出ていくためにわれらに必要なのは、主の下に立ち返ることである。
 F. Adeleyeが繁栄の福音(ジョエル・オースティンなど)について。物質主義に冒されているわれわれに忍び寄る。何か献げたら、それ以上のものを神から見返りとして求める。献金は、もはや、神への投資となる。そして、そのような福音は、決して、貧しい者たちへの福音ではない。では、繁栄の福音にどのように応えるのか。まず、繁栄の福音が「お金」に関するものであることを知ること。そして、貧しきものの立場に立つこと。そして、クリスチャンが「もの」を偶像化していることに気がついて、簡素な生き方へと戻ること。アフリカにおいて、繁栄の福音があまりに語られているため(もともとはアメリカでしょうが)、このことが大きく問題にされているのだろう。
 最後に、E. Wernerが男女のあいだの関係について。これまでのローザンヌ会議でのコンセンサスに則って、進むべきである。われわれには両者の賜物が必要である。そして、われわれは世界のすべての女性が必要である。このことを覚えて、進むべきである。神はわれわれをまねいておられる。戦うのをやめて、異なっているという賜物を大切にしようではないか。
 日本に生きていると、どれだけ自分が物質主義に冒されているか、分からなくなってくる。どれだけ成功と人気と力を求めているか、分からなくなっている。もう一度、謙遜と誠実と簡素(humility, integrity, and simplicity)の重要さを覚えたい。

夜のセッション

 夜はアフリカ。なんと自由に自分の信仰を身体で表現できるのだろうか、感動する。日本人は表現力が一般的に低い。出来ないわけではないが、なぜか表現できない、というか、表現するのが悪徳と感じているのかもしれない。これまで宣教師を受けていた大陸が、これからは西欧へ宣教師を送り出すようになる、そんな若い人の溢れた若い教会である。
 

 
それとともに、多くの戦争で男たちが死に、父を知らない子どもたちが多く存在する。そのために、スポーツを通しての働きが用いられている。そして、その事を通して、主の弟子へと育てていく。なんとなく、「弟子とすること」がこのローザンヌの一つのテーマのように思える(というか、宣教のテーマだろう)。
 そのあと、子どもたち、宣教のパートナーとしての子どもたちのこと、二十億人の子どもたちのうち、半分は貧困の中にあること。そして、教会の将来を担う若者たちを育てることの重要性がアピールされた。

Asburyの卒業生

 Asbury神学校の卒業生の集まりが夕食時にもたれた。よく知っている人は少なかったが、何となく懐かしい。世界的な広がりのある学校で、これからもあってほしいと思う。さいわい、新しい学長は宣教学者なので、そのあたりは期待できそう。現在、学生の11パーセントが留学生だそう。