報告書原稿

 ローザンヌ世界宣教会議参加者で、それぞれの感想・報告をまとめました。その中に記載した、わたしの文章を載せておきます。時報原稿のある一部の部分をより詳細に書いた内容です。

 現在、関西聖書神学校の舎監をしております鎌野直人です。第三回ローザンヌ世界宣教会議に出席し、さまざまな感動と宿題を頂いて帰ってきました。テーブルグループでの交わり、食卓での交わり、日本からの参加者のあいだの交わり、めぐみを数えたら、きりがありません。報告では、日本のきよめ派の教会に属する、ひとりの聖書学者・神学教育者が今回の会議で考えたこと、特に日本の文脈への語りかけという観点から、二つのことを報告させていただきます。
 まず、「われらの福音理解をもっと広げる必要性はないのか」という語りかけを聞きました。欧米のリバイバリズムや聖潔運動の影響の中で生み出された宣教師によって生まれたわたしの属する教会には「罪からの救いという福音を出来る限り多くの人に伝える」情熱とその実践という強さがあります。さらに、「内なる人のきよさ」を求める渇望とその強調という特徴もあります。けれども、今回、ケープタウンで世界中のクリスチャンリーダーたちと共にエペソ人への手紙を学ぶ中で、自分たちの福音理解が「狭い」のではないか、という認識を頂きました。会議では、全宇宙の創造者である神の摂理的計画には宇宙大の広がりと、神の宣教という宇宙大の広がりのある、この働きにわれわれがそれぞれの地で、たとえそれが小さな歩みにしか見えなかったとしても、積極的に参与することの必要性と責任が語られました。その一方で、自分たちはどうか、と考えると、失望感に満ちているように思います。狭い国土に住み、たえず少数派を感じ続ける日本の教会には「われらの歩みは小さく、取り立てて何の影響力もない。そして、現在、力をさらに失いつつあり、やがて今の年長者世代が死に絶えれば、消えてしまっていく存在である」というような閉塞感が漂っている気がします。だからこそ、「われらは福音、つまり宇宙の創造者である神の宇宙大の計画のよき知らせとその宣教の働きにこの日本の地で加えられている」という確信と使命感を思い起こす必要があることを今回の会議で教えられています。武力でもたらされていたローマ帝国によるローマの平和という欺瞞のまん中でキリストの平和をパウロが宣教したように、「経済的繁栄による平和」の欺瞞が暴き出され始めている日本で、宇宙大の広がりをもつキリストの福音とそれがもたらす平和を語り、生きるように教会はまねかれています。そして、神の宣教に参与する責任を託されているのです。"Think globally, act locally"(地球大で考えて、その地域で行動せよ」)ということばがありますが、キリスト者は、"Think cosmically, act locally"(宇宙大で考え、その地域で行動せよ」)なのだと、福音の広がりを知ることを通して感じさせられています。そして、神の宣教という同じビジョンを神から頂き、この宇宙大の福音に生かされ、行動する仲間が世界中にいます。このことを覚えて、この地でなすべきことをさせていただきたいと願っています。
 二つ目のことは、ケープタウンのわたしが泊まったホテルの近くのオランダ改革派教会の裏にあるアンドリュー・マーレーの像があることに気づいたことに端を発した、ひとつの考えです。彼の書物の多くが日本語に訳され、わたしの所属する教派の多くの人も彼の書を愛しています。彼は19世紀の南アフリカ・オランダ改革派教会の牧師でしたから、この教会の裏に彼の銅像がおかれるのは当然だろうと思いました。そこで、彼について少し調べ、彼の生涯と南アフリカの歴史を振り返ってみた時、なんと彼の晩年にはアパルトヘイトへの道が着々と敷かれ、最終的にはマーレーが所属していた教会(南アフリカ・オランダ改革派教会)の牧師であったマランが大統領となった1948年、アパルトヘイトが公式の南アフリカの方針となったことがわかりました。マーレーには豊かな霊性があるでしょう。しかし、その霊性を受け継いだはずの教会から人種差別の政策が生み出されたのです。また、マーレー自身もアパルトヘイトへの道に進みつつある国に対して、ほとんどなにも語っていません。霊性とは何か、福音とはなにか、わたしは正直、当惑しました。
 マーレーに関わるこのことと、1994年にフツ族による民族粛正が行われたルワンダの牧師が会議の基調講演のひとつで語っていたことばが最近になってわたしの中で響き合い始めています。Rutayisire氏によると、民族粛正が行われた時、ルワンダはもうすでにキリスト教国でした。90%の以上の国民がカトリックプロテスタントなど諸教派に属していました。しかし、キリスト教国であるにもかかわらず、そこで前代未聞といわれるような暴力的な行為が行われたのです。氏は、「福音は語られたが、民族のあいだの争いという社会的な問題は取り上げられなかった。霊性は語っても、それが日々の現実と結びついていなかった。国の必要と問題に応えるような、福音の文脈化が行われていなかった」、だからこのようなことが起こってしまったのだ、基調講演の中で解説しました。
 これらのことを思い浮かべる中で、日本の教会は本当に大丈夫だろうかと、立ち止まらざるを得ませんでした。福音は語られているだろう。豊かな霊性もあるだろう。しかし、これらが個人と社会と国の現実と結びつけられているだろうか、言い換えるならば全人格的なレベルまで深められているだろうか。何か問題が起こった時、われらは福音に則ってその問題に対応できるのだろうか、これまでそのように対応してきただろうか。それとも「日本的」な方法で、福音によってはなんら変革されていない方法で、それに取り組んではいないだろうか。自分の伝統を見るならば、その霊性は豊かであるかもしれない。しかし、和解の福音がわれらの文化の中に文脈化されておらず、われわれが抱えている問題に光を当てられていなかったならば、何かあった時、南アフリカ・オランダ改革派教会やルワンダの教会と同じあやまちを犯してしまう可能性をもっているのではないか、そのような思いを頂いています。和解の福音によって、日本の教会も現在と過去を再検討し、和解の福音のメッセージによってこの国の諸問題への主のいやしをいただき、意図的に、繰り返し、全人格的なレベルまで深められた和解の福音のメッセージを語り続ける必要があることを覚えます。Rutayisire氏が最後に語っていたのは、和解のメッセージが人々の心の奥に届き、人々が変えられるまで繰り返し語り続けよ、ということでした。日本における福音の全人的な理解が深まるように働けと、主からの召命をいただいたように感じました。