午後のセッション

 分科会は「繁栄、貧困、福音」のセッションへ。アフリカの学者たちが発表し、導いていた。繁栄の福音は、貧困を悪魔のように取り扱い、貧しい者を隅に追いやる。貧困のアフリカの現実のなかで、それをごまかし、困難なしに、すぐに貧困から脱却を求める人々の心に働きかける。まさに、アフリカの極度の貧困の中に繁栄の福音が広がっていることが問題である。短い講義のあとの質問の中で、アフリカにおける繁栄の福音は、都市部ではサポートされているが、田舎では受け入れられない。説教をする者たちが、自分が利益を得るために(立派な家を建てる、ベンツに乗る、など)説教をするようになると、繁栄の福音の危険がある。そして、これから必要なのは、「労働の神学」である。
 アフリカの学者たちの神学的思索の深さを思わされた。そして、福音派に本当に必要なのは、神学的倫理であることが、明確になってきている。今、この時代に、どのように生きるのか。天国に行くことだけを考えている、そんな神学から脱却し、キリスト者として如何に生きるか、もっと聖書から教えられる必要がある。ちなみに、印象深かった神学者のひとりはこんな感じの人。
 

 
 続いて、神学教育に関するグループへ。神学教育がグローバルであるか、どうか、についての提案。まず、聖書によってグローバルであることはサポートされている。次に、グローバルへと進み、平等になる可能性がある。まだ平等ではないが、様々なリソースをひろげ、互いに分かち合うことを通して、このことがなされる。最後に、グローバルな神学教育はグローバルな教会という共同体にエネルギーを与える。単にグローバルに存在するだけではなく、そこにグローバルな実質を与えるものが神学教育である。受け取り、与えることによって実質が生まれてくる。神学校は教会の宣教の為に仕え、神学教育の協力団体は神学校で教える人を訓練するために仕える。
 ここで話されていたことの一つに、教科書の問題、特に自国語での教科書の問題が出ていた。それとともに、文化を注視し、生まれてきている神学をよりグローバルで分かち合う必要もある。西からではなく、むしろ南と東が協力し合う方向がもっと生み出されればいいのに、と思う。