午前のプログラム

 まず、7時30分からのTable Group Leader Meetingへ。いろいろな問題がだんだん解決されているようすが分かる。フィードバックも入れ、祈祷課題も送った。「より深い会話と交わりが生まれるように」という願い。
 8時30分からの聖書講解。エペソ人への手紙2章。結構、深い箇所。多くの讃美から集会は始まり(各国語で歌う歌があり、どうも今日も日本語で歌っていたようだ[日本人の方が讃美チーム、といってもほとんどプロの讃美チーム]の中におられるので]。昨日同様、帰納的聖書研究法で共に読み、見いだしたことをわかちあい、講解メッセージを聞く。Ruth deBorstというコスタリカの女性の説教者。エペソ書を「ローマ皇帝による平和」の時代のまん中に置き、力による平和ではなくキリストの十字架による平和と和解がテーマ。神が私たちに「よいわざ」(10)つまり、責任ある関係を生み出すことを与えてくださった。その中で、「思い起こし続ける」継続的なあゆみが要求されている(11)。かつてはすべての人が死んでいたこと、そして今にも壊れそうな「ローマによる平和」ではなく、キリストがすべてを与え尽くすことによって与えられた平和、「キリストによる平和」が到来したこと。そして、キリストが生み出した平和とは、神の宇宙大の和解がこの地上にもたらされたものであること。そして、神の新しい物語によってわれわれに新しい市民権と家族が与えられたこと(自分たちで獲得したのではなく)。神の和解のすばらしさ、その広さと深さを思い起こさせられるメッセージであった。
 主題講演は「和解」。インドのカースト制の最下層にいる自らを「ダリット」と呼んでいる不可触民(人口の25%)が奴隷として使われており、南アフリカアパルトヘイトと変わらない現実、そして、そのような世界とは全く異なった現実がもたらされたいと願っていること。そして、語るならば、信用される生き方が求められていることが紹介された。つぎに、ルワンダのA. Rutayisireが、キリスト教国である自国で起こった民族虐殺からの教訓を語る。福音が文脈化されていなかったこと、民族の世界観への挑戦がなされていなかったこと、福音が民を一つにするものだと思われていなかったこと、教会と政治の関係が深く考えられていなかったことをあげていた。教会は預言者としての警告をあげるべき存在であったのに、それが出来なかったのである。だからこそ、和解のメッセージを語るべきである。それも、十字架に架けられたキリスト、キリストによって新しくつくられたものとして、新しい聖霊の実を結ぶことを。そして、意図的に、繰り返し、このメッセージを語り続ける必要がある。和解のメッセージが人々の心の奥に届き、帰られるまで。
 二つの講演のあとのグループ・ディスカッションは、祈りが答えられたのでしょう、深い話が語られ出した。モスリムによる襲撃のあとの和解、家族の中での和解のこと。

午後のプログラム

 昼食時、ウイクリフの働きをしている人とその友人が語っているよこに割り込んで、話を聞かせてもらう。みんな、一生懸命がんばりすぎているよう。
 午後の分科会は環境危機に関するものに出席。温暖化の問題、被造物を大切にすることの教育などが話された。
 そのあと、ディスカッションの時は、行きたいと思ったところが全部一杯、残念。
 夕食時、ナビゲーターの働き(英国とカナダ)をしている方の横に座り、その働き人の将来のためにどうすればよいか、いろいろと考えておられる様子を見る。リーダーシップをとっておられる方々のようで、牧会的配慮をもって、働きの中心である「働き人」のことを考えている姿に、神学校での牧会の重要性を覚えさせられた。英国のナビゲーターの方は、自分の両親が英国の日本伝道隊の祈祷会に行っていた、という話をしてくれた。

夜の集会

 夜の集会。讃美では思い切り動かされたりして、汗をかく。
 

 
今日のテーマは中近東と砕かれている世界(とくに人身売買とHIV/AIDS)。
 中東、特にイランではサテライトテレビの影響で、リバイバルが起こりつつあること。キリスト者の人口が一%以下の北アフリカムスリム諸国のなかで迫害を経験しながらもクリスチャンが生まれていることが報告される。
 

 
「教会の基本的な教えに迫害が含まれている」というひと言は重い。日本ではどうだろうか。
 そのあと、カンボジアで人身売買を経験し、そこから解放され、そのあと、キリスト者によって設立された救済団体を通して整えられ、さらに福音に接した女性の証し。そして、薬害や親からの伝染によってHIV/AIDSにかかった人の証し。HIVに冒されたからこそ、そして友人たちを通して励まされたからこそ、同じ病を負っている人を助ける働きを進めている。こころに残ったのは、彼らのように薬害や親からの伝染の人は「しかたない」と思うが、性的接触によって感染したひとは「自業自得」と考えてしまうことは偏見であること。どのような形であったとしても、HIV/AIDSに感染している人はわれらが、教会が関わるべき人である。
 伝道と社会的行動の両者が大切であることが語られているが、まさにこのような人々の働きが、この二つを明確に結びつけている。福音に押し出されて、現実に向き合って、傷つき、砕かれているこの世界に仕える教会へとなるべきだと思った。和解が、今日の世界で、現実的で意義有るものとなるように祈る。