午後のセッション

 午後は、分科会。色々考えて、イスラムに関するセッションに参加する。結論から言うと、大正解のセッション。日本の宣教を考えることの大きな助けとなるように感じた。まず、伝統的なモスリムへのアプローチがまとめられた。一つは、マタイ10:16モデル(鳩のように素直で、蛇のように狡猾に)。モスリムの支配者の下でのクリスチャンのアプローチ。次は、19世紀の議論によるアプローチ。すばらしい働きだが、回心者はほとんど起こされなかった。そして、20世紀の「モスリムの成就としてのキリスト教」モデル。イスラムにも真理があり、良い点がある。99%よくて、最後の1%足らないのがキリスト、という考え方。のアプローチの変化は、西洋の文化の影響をもろに受けている、と感じた。つまり、教理的正統主義の19世紀、自由主義的アプローチの20世紀。二人目の講師は、モスリムに詳しい学者。「イエスの弟子であるモスリム」とはどんな存在か、という点で、六つのモデルを提供。礼拝における文化も、ことばも違うC1。文化は違うが、母国で信仰するC2。文化的には土着しているが、イスラムのように見える要素を避けるC3。聖書的にはゆるされるイスラムの様態をとるC4。文化的、公的(国からの認定など)はモスリムで、モスリムの文化に住んでいるがイエスの弟子である人がC5。隠れクリスチャンであるC6。ここでは、C4からどこまでC5へ進めるか、議論されているようだ。ちなみに日本の多くの教会はC3とC4のあいだのレベル。最後の発表者は、キリスト教宣教への反対の感情がどのようなものであるかを議論。西欧諸国の介入、モダニズムという西欧の価値観の導入、消費至上主義の導入などのゆえに、宣教への反感が生まれているということ(もちろん、そうなるだろう)。だからこそ、カードを隠さないで、透けて見えるようにアプローチをすること、モスリムを受け入れ、共に生きる神学に立つこと、民の必要に応え、関わっていく神学に立つことが必要だと言われた。日本人へのアプローチは、ひょっとしたら、ここで語られているモスリムへのアプローチをしっかりと消化するなかで、生まれてきそうな気がする。
 そのあと、ディスカッションのセッションは、グローバリゼイションについて。Os GuinnessとDavid Wellsが主催。隣に座ったオランダのユース・ワーカーと話もする。彼らの言うグローバリゼイションは、インフォメーション・テクノロジーによるグローバリゼイションのこと。Wellsも指摘していたけれども、新手のグノーティス主義が教会の中にも誕生しつつあることを感じる。ネットが重要になればなるほど、「キリストのからだ」としての教会が、顔と顔をあわせ、からだを使って、生きていることの重要性が問われるだろう。あと、本当の意味で「キリストの弟子として生きる」ことが問われてくる点が上げられた。日本における「弟子化」は「誰の弟子になるのか」という問題で、結構、危険視されていると思う。キリスト者の人格が立てあげられていくことの重要性、キリストの弟子として生きるようになること、そのための労苦の必要性を感じる。