朝のセッション

 一日は朝、7時半からのTable Group Leader Meetingから始まる。ここまで起こっていることを振り返り、今日の出来事を話、共に祈る。明日、10/23はなし、ということになる。ちょっと、ゆっくり出来そうだ。
 聖書講解はV. Robertsによるエペソ4:1−16、教会の書。自分で読んでいる時に、キリストの宇宙大の広がりと呼応する教会の宇宙大の広がりを感じていた。講解者も、地域の教会そのものは分裂したり、印象深くなくても、この箇所を読む時、将来のすばらしさを事前に味わうことが出来る、と力説。大切な点として、教会の一致は神から賜物として与えられている事実であって、それを保持することがわれらの使命である。もちろん、賜物としての一致は組織的でも、教団的でもなく、霊的なものであるが、それが目に見える形の一致へと進む。この一致は、神の召命によって、聖霊のうちに与えられる一致である。自分たちと似たような者によってつくられるものではなく、日々、高ぶりとの戦いを通して、恵み豊かな愛がモデルとなる一致である。また、一致は同一化ではない。皆が異なる中での一致である。この一致はみことばによって形成される。そして、なすべきは、「愛をもって真理を語る」こと。真理は相手を打ち負かす武器ではない。
 午前の主題講演では、宣教の優先順位について語られる。福音が最も必要な人は、われらに来てくれとはまねいてはくれない。だから、聖書に土台を置き、すべての民族グループを弟子とし、教会の存在しないところに集中し、「行け」という命令に従い、信仰を語るだけではなく、生き方であらわし、互いに愛し合うことを最も大切なものとして、進むべき。また、聖書飜訳の観点から言うと、8000ほどある言語のうち、450ほどにしか聖書は飜訳されていない。その現実の中で、聖書の物語を、その民族のことばで語る「口述聖書」が必要とされている。福音が届いておらず、キリスト者が関わっていない数多くのグループの必要のために、祈り、探求し、整え、人々をその働きへと向かわせる必要がある。日本人として、日本宣教の必要性と共に、特にブラジルにいる日系人の必要を覚えた。また、このような宣教の働きがあることが日本の教会でどれだけ知らされているだろうか。中国大陸にいる漢民族への宣教は大切だが、同じ中国でも自国語で福音を聞くことができない人々への宣教を忘れてはならない。

午後のセッション

 午後は、リーダーシップの継承についてのセッション。キリストのようなリーダーシップ、ということ。犠牲的に仕え、謙遜で、やさしい。それは、個人的に偉くなる、顕著な働きをするためではなく、リーダーシップの働きは神のめぐみによって与えられるもの。特に、人格と知識の両者を必要とするので、リーダーシップの形成は、科学というよりは芸術である。小グループでの対応、関係作り、ドラマなどの創造的な活動を通して体得していく。忘れてはならないのは、リーダーシップとは、他者を解放し、他者がその働きに進めるように助けることえある。残念ながら、理論的な話はあっても、実際的なトレーニングの部分があまり話されなかった。原則はよく分かっているが、じゃあ、どう育てたらいいか、考えないといけない。
 次のディスカッションのセッションは神学教育について。二つのポイント。ひとつは2/3諸国での神学教育が栄えるためには、豊かな国からの経済的は助けがこれからも必要であること。もう一つは、神学校(seminary)がそのことばの通り、将来の指導者の温床となるためには、実践と熟考できる教師陣、知るべき事を知らないでいる人々を進むべき所へと導くカリキュラム、近くに住んでいない人や現在生きていない人の知恵を知ることができる図書館設備、知恵あるメンターとの一対一の対話が必要であることが語らえる。日本の神学教育、自分が関わっている神学教育をより良いものにするために、何が必要なのか。神と一対一でぶつかる信仰者としての姿勢が必要であるとともに、しっかりと関わってくれる人の存在が求められているように思える。

Asburyの卒業生

 Asbury神学校の卒業生の集まりが夕食時にもたれた。よく知っている人は少なかったが、何となく懐かしい。世界的な広がりのある学校で、これからもあってほしいと思う。さいわい、新しい学長は宣教学者なので、そのあたりは期待できそう。現在、学生の11パーセントが留学生だそう。

夜のセッション

 夜はアフリカ。なんと自由に自分の信仰を身体で表現できるのだろうか、感動する。日本人は表現力が一般的に低い。出来ないわけではないが、なぜか表現できない、というか、表現するのが悪徳と感じているのかもしれない。これまで宣教師を受けていた大陸が、これからは西欧へ宣教師を送り出すようになる、そんな若い人の溢れた若い教会である。
 

 
それとともに、多くの戦争で男たちが死に、父を知らない子どもたちが多く存在する。そのために、スポーツを通しての働きが用いられている。そして、その事を通して、主の弟子へと育てていく。なんとなく、「弟子とすること」がこのローザンヌの一つのテーマのように思える(というか、宣教のテーマだろう)。
 そのあと、子どもたち、宣教のパートナーとしての子どもたちのこと、二十億人の子どもたちのうち、半分は貧困の中にあること。そして、教会の将来を担う若者たちを育てることの重要性がアピールされた。