午前のセッション

 朝の聖書講解はエペソ3章。John Piperが講解説教。三つのシーンがあるとして、最初のシーンは、主権者である神の計画が知らされること(8−10)。この計画には、神の知恵が宇宙大のスケールで明らかにされている。二つ目のシーンは、神の宇宙大のご計画のために、神はあえてある者たちを牢獄へ入るように選ばれたこと(1、13)。パウロの苦難は、われら異邦人の栄光のためである。三つ目のシーンは、その栄光を熱心な祈りを通して見るということ(13−21)。これまでの二人の説教は比較的、テキストにこだわっていたけども、Piperは1コリントやガラテヤを引っ張ってきていた。
 本来なら、主題講演1は講解説教のあとに共に適用を分かち合うのだが、今回はひとりの女性が登場、医療をもって困難な中にある民に仕える働きへ、神によって「押し出され」「まねかれ」ていた旨が話される。そして、彼女の手元に渡された紙に、彼が最後に仲間たちにしたであろう説教のアウトラインが書かれていて、その内容を聞いた時、思わず、胸が詰まった。エペソ2:8−10(神のめぐみによって、良いわざのためにつくられている)、2コリント2:14−16(キリストのかおり)が開かれていた。死の匂い、もしくはいのちのかおり。神のめぐみや神が自らをわれわれに開いてくださっていることは、ふつうの世界に生きている人にとってはあまりにも異質で、むしろ異様に感じる。しかし、そのすばらしさに触れたならば、「またほしい」と願うようになる。しかし、そこに至るまでには時間とエネルギーがかかる。医療宣教(「宣教」ということばが誤解を招きうるが)は、この時間とエネルギーのかかる仕事をしている。それも命がけで。この証しだけで、今日は十分満足だ、と思えるほどのものを聞いた。
 午前の二つ目の主題講演は、世界諸宗教について。イスラム教から若い時に回心し、アッセンブリーオブゴッドの働き人となっている女性の証し。モスリムを理解し、そして愛し、そして彼らに証しをしてほしい、教会が「文化に対抗する」教会となってほしいと願っていた。さらに、M. Ramsdenはキリストの弟子になることは、高価である、いのちを失う可能性さえある、福音のためにはわれらのすべてが求められている、と語られる。そして、福音を分かち合うとは、自分の名誉のためではなく、キリストにあって、キリストのために、キリストへ導くためにある。最後にZ. Miralは、世界の諸宗教の人への証しが失敗に終わっている原因として、「世界を理解できず、キリストのような姿で生きることができていないこと」、そして「個人的で、中産階級のための福音を語る20世紀の姿のままであり、より複雑な21世紀の現実に応答していないこと」があげられた。われわれが置かれているところで、十字架に架けられ、よみがえられたキリストを信じ、生きるとはどういうことか、考え、実行することが大切である。文化と対話し、福音を大胆に宣言し、信頼を勝ち取るものとなる、この重要性が教えられた。
 「福音の広さ、高さ、長さ、深さを知り、それに生きる教会」。これが、現代に必要であることを思わされる。われらの福音理解は本当に聖書に語られているほどの広さ、高さ、長さ、深さがあるだろうか。そして、教会はキリストのからだとして、キリストの真理を体現しているだろうか。日本の教会へのチェレンジがここにあることを思う。